セグンド・ヨレンテ |
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北極の伝説的なイエズス会宣教師 |
日本語 |
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このイエズス会司祭、何よりも北極圏真っ 只中の宣教師であった彼は、1906年、 スペイン・レオン県マンシリャ・真よール に生まれ、1989年1月26日、アメリ カ・ワシントン州スポけインで死去。1月 30日、アメリカ・アイダホ州デスメット に埋葬された。 17歳のときに司祭になる決心をした。 19歳で宣教師になろうと決めた。地図を 見て世界中で最も人に知られていない困難 な所を探し、アラスカへ行く許可を得た。 40年近くをイヌイット人(旧称エスキモ ―人)のあいだで過ごし、ユーコン川の両 岸を何キロも何キロも歩き回った。アクル ラック、べテル、コツエブエ、アラカヌク で長年過ごしたが、彼の物語で最も有名な のは、『アクルラック物語』という本の中 で、同じ名前で知られている物語である。 |
1963年に召命刷新(その目的で)の ために、ただ一度スペインを訪れた。 彼はその生涯でアラスカについて12冊 の本をすべてスペイン語で書いた。カン サス州で(神学を学んだ4年間に)英語 も学び、英語を完全に話し、さらに エスキモー語も話せるようになった。(彼によると“片言でしゃべっていただけ” という)。彼はいつもの深い喜びを心に抱きながら、人びとを司祭や宣教の召命へと誘う多くの 物語を書き、またイヌイットの生活やエピ ソードを記した手紙や記事を書き送った。これらは宣教雑誌に、なかでもすでに発刊 された『宣教の世紀』に掲載された。これ らの記事から選ばれ編集されたものは、の ちに次のような何冊かの本になった。 |
『永遠の氷の国で』
『ベアリング海の沿岸で』
『エスキモーのそり』
『ユーコン川の司祭の思い出の記』
『アクルラックの物語』
『北極の冒険』
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とりわけ、これらの本のなかから選びぬかれた選集が『北極における 40年』であり、ヨレンテ神父の弟でイエズス会員でもあるアマンドと、 ン・ホセ・A・メスとロが編集に当たった。この本にアマンド神父が まえがきとあとがきを書いており、これ一冊だけで、この「神と宣教師 の横顔を味わうことができる。ヨレンテ神父は神に対して何事も拒んだ ことはなく、彼はよく自分の書いたものの中で、具体的には次の文章に 見られるように、司祭であることに最高の喜びを感じていた。「聖マリア も天使たちも、司祭が毎日行っている事をされることはできません。 キリストはそれらを別なやり方でされる事ができたでしょうが、実際に は司祭の介入を選択され、人類の救いのためにキリストご自身が司祭の 形になられました。キリストのみこころを信じる者への約束のなかでも、 硬くなった心を和らげる恵みを約束された司祭たちのためには、特別な 約束が欠かさずにありました」。 |
考察
「主にとって、司祭に従順になることはごく当たり前のことと思われる。私がミサの中で聖変化のことばを言う時に、主は従順であらねばならな い。私が人に罪のゆるしを与える時、主はとがめられるべき障害がなけ れば、そのゆるしを認めなければなりません。私が人に洗礼を授ける時、主はその被造物を養子に迎えなければならない。主ご自身がそのことに、つまり、いつも私たち人間に奉仕するということ
に責任を負っておられた。ヌナジャックの教会の暗がりで、主と私だけで、何も言葉に出さずに、互
いを理解じ、休息し、ここに地上で私たちの天国にいることができた。町の大きな教会でも、村の教会でさえも、聖所が人びとから離れており、そして人も聖なるものから離れているように思われる。アメリカを訪れた時、広場のような教会に入ると、私は本当に広場にいる ような気がした。ここヌナジャックではそのようなことはない。ここでは、祭壇のそばにいると、人がどんな小さな声でひそひそ話をして も、イエスに聞こえてしまうと思うだろう。朝になると、明け方に洞穴から出る熊のように、私が毛布の中から出る。
ろうそくに火をつけ、乾いた干し草を中に敷いてフカフカにし、必要以上 に足が冷えないようにした皮の長靴をはく。 ストーブに火をつけ、水が凍っていたら、氷をとかし、顔を洗う。ドアを 開け、ニ歩歩くと、私はもう祭壇の前にいるのだ。放蕩息子の父親が上の息子に言ったことを私も主に向かって言う。「あなたはいつも私と一緒におられます。だから私のものはすべてあなた のものです」と。しかしこれは反対だという声が聞こえるような気がする。私は主と共にいる者だから、主のものはすべて私のもんだ、というのであ る。そうすると、こう言う問が出てくることになる。はたして私のものが主に とって大切なものだろうか?主は私の修理した長靴、私のすりきれてスー タン、私の無知をどうされるだろうか? 一方、私のほうはといえば、主のもの、すなわち、主の全能、主の善さ、主の憐れみをすばらしく使うことができる。確かに私はいつも主と共にいるのだ。」
年譜
1906年11月18日:スペイン・レオン県マンシリャ・マヨールに
生まれる。両親の名前はルイス・ヨレンテとモデスタ・ビリャ。
兄弟:ダビド(1908)、エバンへリナ(1911)、
ホアキン(1914)、リボリオ(1916)、アマンド(1918)、
マリア・モンセラット(1921)、ホセ・ルイス(1925)、
ルシニオ(1929)。
1919年 :レオンの小神学校に入学。
1923年6月16日: カリオン・デ・ロス・コンデスの言えずス会に
入会。
1926年 : サラマンカで人文学を学ぶ。
1927年 : グラナダで哲学を学ぶ。
1930年 : アメリカに渡る。イエズス会オレゴン管区会員として、
ワシントン州スポけインのコンザガ高校で教える。
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1931年:カンサス州セントメリーカレッジで神学を学ぶ。 1934年6月24日:司祭叙階。9月::カリフォルニア州アルマで神学を勉強する。 1935年9月: 37日間の旅を してアラスカのアクルラックに到着。 1937年:ワシントン州ポート・タウンセンドで第三修練。 1938年: コツェブーに派遣され る。 1941年:アクルラック院長に 任命される。 1946年:ヨレンテ神父の父死去。 1948年:べテルに派遣される。 1951年:アクルラックとアラカヌックに再度派遣される。 1952年10月:メキスコに行く。モンテレイの第三宣教者集会参加。 1953年:弟アマンド神父のアラスカ訪問。 1956年10月3日: ヨレンテ神父の母死去。 1960年: アラスカ第一回議会代表員に選出される。 1963年5月: 召命刷新のために、33年ぶりにスペインに行く。 |
1964年: ノームに派遣される。
1966年: USA、コルドバに派遣される。
1970年: アンカレッジに派遣。
1975年: アラスカに40年滞在の後、ワシントン州モーゼス レイクに派遣。
1981年: アイダホ州ポカテロに派遣。
1984年: アイダホ州ルイストンのセント・ジョゼフ病院つき 司祭となる。
1989年1月26日: ワシントン州スポけインで死去。
1月30日: アイダホ州デスメットに埋葬。
再新入は2003年1月8日。
畏れ入りますが、私の訪問者名薄にご署名ください。
私の訪問者名薄をいつでもご覧になることができます。
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ページ作成者: ザビエル・ロペス